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「有益じゃないと意味がない」のか(デイケアと、東畑開人先生の文春の記事を読んで)

昨日(10/6)の日記です。

昨日は友人とFacebookのメッセンジャーでやり取りをしていました。30往復くらい。以下、そのやり取りの中で私の送った文の一つです。

『私はずっと効率・合理的思考・生産性etc.を良しとする考え方を社会から吹き込まれていたから、デイケアでアロマの会とかやって何になるんだろう、って思ってきた。でも、今ならアロマの会の存在意義がよく分かる。「ただ時間を過ごす”だけ”」でいいのだと、今は思えるようになった。生産性が全てではないのだと思えるようになった時、自分を許せるようになった。その時から徐々に体調が回復していったような気がします。』

と。

メッセンジャーのやり取りの中で、なんでこんな返信を書く流れになったのかと言うと、以下の記事を友人が昨日見つけたらしくて。その感想を送ってきて。でも私は去年の冬くらいにたまたま見付けて読んでいました。文春オンラインの記事です。タイトルは前編が『臨床心理士が精神科デイケアで学んだ「麦茶を入れること」の思わぬ効用とは』、後編が『私たちは「有益じゃないと意味がない」という思い込みから逃れられるのか』です。

https://bunshun.jp/articles/-/11385

これで東畑開人という人を知りました。そして東畑先生の『居るのはつらいよ』を読みました。

この、『私たちは「有益じゃないと意味がない」という思い込みから逃れられるのか』という問いはまさに私の抱える問題の核心を突くものでした。

私は19歳から、激鬱でも体を引きずりながら風俗・水商売で働いてきました。働かないのは罪だと思っていたからです。馬車馬の如く働いて初めて生存することが許可される。社会ってそういうものだと思っていました。自分を犠牲にしてでも、働かなければならない。そう思って生きてきました。

それが、27歳の頃だったか、「福祉」というものに出会ったのです。具体的には地活(地域活動支援センターⅠ型)です。そこでは「ただ居るだけ」でいいのです。何もしなくても、ぼんやり座っているだけでいい。責められない。別に何かしていてもいいけれど、何もしていなくても誰も咎めない。不思議でした。こんな空間があるんだなと、ただただ不思議で、最初は戸惑いました。生産性を追求されないという場所があるということ自体に、最初はただただ戸惑っていました。その空間に少し慣れてきた頃に、地活にピアサポーター養成講座のチラシが貼ってあったのを見て、養成講座を受け、ピアサポーターになりました。

昨日のその友人とのメッセンジャーのやり取りの中で「無駄」や「遊び」の有用性についても意見交換しました。10/5に『精神0』の山本先生とお話をしましたが、その話の中でも「無駄だと思えることが実は一番大切」という内容のことを話し合っていました。効率化・合理化された世の中で見えなくなっているものがある、と山本先生はおっしゃっていました。私も同じように感じます、と長話になりました。「無駄」の必要性をじっくりお話しました。具体的には、長くなるので割愛します。またいつかの日記で書けたらなと思います。

「有益じゃないと意味がない」。ただ生きてるだけじゃ駄目だと、障害者は社会のお荷物だと、そういう固定観念から抜けられなくて私はずっと苦しんでいました。その考えからの開放の嚆矢となったこの記事の東畑開人先生の指摘は鋭いと思います。

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